”メンヘラ”と名乗るには元気すぎ、”普通”に混じるには弱すぎる。どっちつかずの人間の、人生放浪日記。
2008/11/09 (Sun) 私は、偽の神の裁きを拒否する

きのう、TBSの報道特集NEXTで境界性人格障害についての特集があり、それに関係して、症状の「重い」「軽い」について思い出したことなどがあったので書いておきます。


私は対人関係においてはどちらかというと回避的なので、誰かに依存したり依存されたりということは少ないと思っている(もっとも、健康なレベルで相手に自分を預けるということもほとんどできないから、対極の位置にいるだけで、あまり依存者と本質は変わりはないのかもしれない)。

そんな私が、過去、「依存されてるのでは」と重荷に感じていた人間関係があった。友人Aさんは精神疾患を患っており、いわゆる「症状の重い」人だった。症状や病名はプライベートに触れるので割愛するが、彼女の話を聞いていると私は彼女に対して自分が「つらい」というのが申し訳なかった。

Aさんが私に依存しはじめたように感じていたとき、私はそれを苦痛に感じていた。しかし私はAさんに自分からかかわったことに対して (感じる必要はなかったのかもしれないが)責任を感じていたし、Aさんのことを苦痛に思う自分への罪悪感で、Aさんを見捨てる形で関係を切るのが苦しかった。

カウンセラーに私は話した。

「Aさんのほうが症状が重いのに、比較的元気な私が彼女を重荷に思って離れるのはひどいと思って苦しい」

カウンセラーは答えた。

「彼女とのかかわり方であなたが感じるさまざまなこと(ストレスや苦しさ)は、彼女自身の問題にも多く原因しているように思う。

あなたの問題はあなたの問題であって、あなたが彼女とのかかわりで苦しさや負担を感じるのなら、離れたことはあなたにとって良いことだった。過度の責任や罪悪感をもつ必要はない。」

私はそれを聞いて救われた気分になった。罪悪感からは解放されてこれでいいんだ、と思えるようになったから、気持ちが軽かった。



しかしなぜかカウンセラーから次の回の冒頭に謝罪された。「あなたより彼女の症状のほうが重いというような話し方をしてしまった」と。

たしかに私はそのようなニュアンスで話したが、カウンセラーがそれに賛同したといえば、私はそんな印象をまったく受けなかった。しかし病気の重い軽いで尊重の度合いを変えるというのは、カウンセラー的にはまずいと思うのはわかります、と答えた。

カウンセラーがそこまで敏感に微妙なところに気をつけてくれているのに、信頼感が増したくらいだ。



いや、私は自分にも嘘をついていたとこうして記事を書きながら思いなおしている。私は本当はカウンセラーにそう言ってほしかった。気づいてほしかった。

「あなたの苦しみと彼女の苦しみは比べられるものではない、”重い”彼女だけでなく、あなたの苦しみも同様に尊重されるものなのだ」と。
だから、小さな小さなサインを出した。彼女の病気のほうが私より重い、と話すことによってカウンセラーを試していた…。

そしてそのサインをカウンセラーは読み取ってくれた、その幸運に感謝する。そういうカウンセラーだけではないだろうから。

カウンセラーは、絶望的に「重い」人も見れば、私みたいな一応社会生活は送れる程度の…「軽い」患者も診るだろう。しかしそれに決して優劣をつけないでくれる。そこに私は救われる。ほかの患者も救われているはずだ。

だからそれは、治療者には必要不可欠なスタンスなのだと感じている。他の人間がどうあれ…世間にいくら甘えや怠けや迷惑や弱いだとかといわれようとも、治療者はそうであってほしい。そういったたぐいの言葉にまみれてきた人間は、そうじゃなきゃ、どこに行っても救われるところがない。たくさんの他者からの「裁きの言葉」を受け流せるのは、自分の苦しみを自分で尊重することを、尊重してくれる人がいるからだ。

そうでもないと、究極的には自殺しなきゃ裁きの対象外にはなれないからね。自殺してはじめて自分の苦しみが尊重されることになって安らげるだろう。尊重されてても、もう死んでるから知る由もないのは、皮肉だね。

投薬の多寡や、社会保障(生活保護やその範囲での入院など)が必要かどうか、「重い」「軽い」にラインを引く目安はある。たしかにある。しかしそれは社会的な基準だ。

社会的なシステムを利用してシステムにのっとって軽快する人もいればそうでない人もいるだろう。システムを利用せざるを得ない人もいるだろう。経済的な理由をはじめ、さまざまな理由で。

そして、そうでない人もいる。システムの定めた「重い」ラインの型にはまってなくても苦しんでいる人間はたくさんいる。特に、精神疾患なんて見ただけじゃわからない。



苦しみは誰にとってもひとしい、平等なものなんて、言うつもりはない。比べるのが無意味だと思うのだ。



「風邪」と「がん」じゃ、がんのほうが重いように感じるね。

じゃあ「HIVキャリア」と「膠原病」じゃどちらがつらいのか ?
「境界性人格障害」と「統合失調症」は?
「境界性人格障害でHIVキャリア」と「うつ病でがん」の人とでは?
あらゆる病気を背負っている人にしか発言権はない?

「誰にも愛されず愛さず生きている人」と「愛され惜しまれて死んだ病人」とではどちらが幸福だろう?

適切な答えを出せることのほうが少ないと思うのです。


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2008/10/20 (Mon) 10月のカウンセリング記録(2)

下の記事 10月のカウンセリング記録(1)の続きです。

カウンセリングルームに入っていくときは、毎回緊張する。カウンセリングをはじめて1年10ヶ月、変わらない。
ウンセリング中にカウンセラーへの心的距離は変化する。部屋に入っていくときが一番遠くて、話し始めると近づき、終わって出て行くときにはまた緊張が戻ってくる。

話し始めると近づく。だけど、話し始めるまでが難しい。

カウンセラーは、私の自主性に任せてくれているのか、自分で話題をふったりはしない。
私が何か話し始めないと、沈黙が続く。

沈黙が続くと私は「申し訳ない」と感じる。相手の時間をムダにしてしまって申し訳ない―と。それは再三カウンセラーに伝えているのだが。カウンセラーは、「沈黙は一般的なカウンセリングでもあることだし、それぞれ患者さんによって理由がある。「話さない」ということじたいに意味があるし、決して珍しいことではない」と言っているから、沈黙しているのは私だけではないらしいのだが、それでも申し訳なさは消えない。
私の場合、沈黙と申し訳なさはセットなのだろう。

それにしても今回は困った。本当に話すことがなかった。

ムリに考えればあるような気がしていたが、私は自分に現在起こっていることを話すのはあまり気が進まないのだった。現在起こっている出来事を話しても、それが日常の報告に終始してしまっては、話の深度は深まらないんじゃないか。つまり「建設的であらねば」思考に支配されているのだろうか。

「雑談」なんかはこういう心理状態ではとても振れない。ネットでほかの方のカウンセリングの様子を拝見していると、「雑談をして帰ってきた」とか見ることもあるのだが…。相手への申し訳なさと、「建設的であらねば」思考がミックスされて、ちょっと緊張しているし雑談をふろうかと考えるだけで色々とぎくしゃくしてくる。

「なぜカウンセラーといるときに緊張するのか?沈黙を申し訳ないと思うのか?」

つまり、私には「何か意味のあることを喋らなければならない」という強迫観念があるのだろう。
特に、カウンセリングでは、「あなたが話したいことをなんでも話してもいい」と言われているのだ。
私の話題選びひとつで、カウンセリングの方向が変わってしまうというプレッシャーから、私は「いかにもカウンセリングらしい話題」をいつもチョイスするようになっていたのだった。

私のコンプレックスにも起因している、
私は自分のことをつまらない人間だと思っているから、なにか意味のあることを話さないとさらにつまらなくなってしまうというような。意味がなくて楽しいことというのは私には話すのはムリだ、と思っているのかもしれない。
これってけっこう、疲れる。
また、相手を疲れさせもすると思う。

そして、何もかも自分の責任にしようとしすぎなのだ。
カウンセラーからも指摘されたことだが…。

沈黙があれば、そこからカウンセリングを進めるのもカウンセラーの仕事で、私がカウンセラーへの申し訳なさからなんとかしようと思うことはないし、
話題選びにしても、私の主体性が発揮されているというよりは、強迫観念から話題が不自由になっている状態だから、カウンセラーはそういう場合は完全な受身を貫くというわけではない。カウンセラーのほうで、私の緊張を解くような工夫をすることもできる。

そういうふうなことを言われた。

なにもかも先回りして相手の要求に応えようとすることの根本には、他人への根深い不信がある。
相手に任せてみるというのは不安なことだし、結果も予測がつかないことだから。
そこが私には一番難しい。
そもそも先回りじたいが無意識に、反射的にやっていることだし、板につきすぎている。

こうして話あいはしたものの、来週のカウンセリングもまた、緊張してスタートするのだろうなと思うと、自然体ってなんだろうと思ってしまう。

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2008/10/20 (Mon) 10月のカウンセリング記録(1)

土曜日のカウンセリング記録、気力がないので、メモ程度に…。

先週より、カウンセラーとの関係を通して私の対人関係の特徴をつかんでいく作業をしていると感じている。

私は相手に直接ネガティブ寄りな感情(不快・怒り・違和感・悲しみなど)をあらわすのが難しい。
なるべくアサーティブに表現するのがよいのだろうが、そもそも「相手が気分を害する可能性のある言動」そのものを抑圧してしまいがちなのだった。

イエスマンっていうのかな。
相手の言うことならなんでもとりあえず賛成してみる(ちがうと思っていても反対はしない)のだ。
それで唐突に爆発してしまったりする。

二面性が激しいと感じるのもそのためかもしれない。
ひとりでいるときに、抑えていた相手への感情が一気に噴出してくるものだから、以前は罪悪感ともあいまって、自分は随分裏表の激しい人間だなと思っていた。
今ではネガティブな感情を持つことへの罪悪感はなくなり、自分に対してもグレーなイメージを抱くようになった。

そうしてガス抜きが堂々とできるようになったからだろうか。
私は他人に思いやりを見せることもあれば、意地悪もカゲで悪口も言うし、しかもそれがまとまりなく気分や体調に左右されていたりする。よいところも悪いところもある、要するに普通の人間なのだと思えるようになった。

ただし面と向かって相手に怒りや不満を伝えるということはいまだに苦手。
対立や議論もストレス。
アサーティブに関連する本も読んだが、私にはまだまだ敷居が高い。
しかしなるべくなら伝えられたほうがよい。

そういうことを話すうちに、カウンセラーに、「なにか私に対して抑圧している感情はあるか」という質問をされた。
質問通り、抑圧してしまっているのだろうからぱっと思いつくものはなかった。
考えてみた。

そういえば、手のポージングを気にしますね。

ポージング?

先生は私の手の動きをよく見てませんか?しゃべる速さだとか。
私のしぐさから、私の心理状態を読み取ろうとしているのだろうかと思うと少し緊張します。

実際、過去に何度か手の動きやしゃべる速さ(私は緊張や不安があると、極度に早口になる)を「指摘」されたことがあったので、カウンセラーはそこもチェックポイントとして押さえているのだろうなと思っていた。だから私は、あまり焦りや不安が出ないように腕を組むのを避けてみたり(腕を組むのは相手を拒絶しているという心理状態を表している、とどこかで読んだことがあったので)、なるべくゆっくり話すように気をつけていた。

が、カウンセラーとしては「あまりそういう意識はなかった」し、「それが「指摘」として私にストレスを与えているのなら気をつけるべきことだった」という答えで、意外な思いがした。
話してみないとわからないものだ。

疑問も沸いた。

カウンセラーは私に不快や違和感があればすぐに伝えてほしいというが、逆はないのだろうか。
カウンセラーが私に不快の感情を伝えるということはないのだろうか。

患者が自分の内面を話すのに対して、カウンセラーはみずからのバックグラウンドをほとんど明らかにしない。そういう意味では対等ではありえないが、私が一方的にカウンセラーに対して感情をあらわにするのでは、ふたりの関係性のうえでの「対等さ」が損なわれるのではないか、と感じたからだった。

カウンセラーの答え。
一時的な症状を抑えるためのカウンセリングか、パーソナリティの領域にまで関わるカウンセリングかにもよって異なるが、一般的にカウンセリングで、相手から不快な感じを受けるということは、もちろんある。そういう場合はなぜそういう感じを受けたのか理由を考えて、パーソナリティに関わるカウンセリングのときは、それを直裁にではなく違和感として伝えたり、相手に質問したりすることはある。

私とのカウンセリングでは、私はうつ病ではないし、パーソナリティのほうに話が及んでいるから、私から受けた印象に対して、それぞれ指摘はしてきたつもりである、と。

なるほど。
そう言われてみれば、私はカウンセリングを始めた頃は、カウンセラーがそこにいることを意識してはいたつもりだったのだが、早口で50分間ガーッと喋って喋って喋りまくっていた。「自分にとっても相手にとってもカウンセリングを建設的なものにしなくては」「相手にとってムダな時間を使わせるのは申し訳ない」という強迫観念からだった。

カウンセラー的には、それは回し車を一生懸命回すハムスターのように映っていたらしい…苦笑。数ヶ月たって、ようやく会話のキャッチボールができるようになってきた、的なことは言われたことがあった。

つまり、カウンセラーのほうは私に対してどういう感情や印象を抱いたかということについて、とっくの昔から言及していたことになる。

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2008/09/21 (Sun) カウンセラーと私

カウンセリング中にも不快や異議を唱えたくなる状況は発生しているのだろうが、ほとんど認知されない。
意識の表面に浮かび上がってくる前に握り潰されている。

まだまだカウンセラーに遠慮があるということだ。カウンセリングでは常に緊張するし、カウンセリングをよいものにしたい、カウンセラーの期待に応えたいと思っている。

信頼したい相手であるカウンセラーに対してでもこうだ。他人を信頼するというのはなんと難しい…一朝一夕ではできないことなのだろう。

最近、私はよくなっているから、もうカウンセラーが私にカウンセリングは必要ないと思っているのではないかという不安があった。

定期的に訪れる、私は怠け病、生きていれば誰にでもあるような苦しみにこだわりすぎているのではないかという疑問だ。

カウンセラーの答え。
たしかに私はよくなってきている。以前はつねに一方の極に振り切れてしまわないと安心できなかったものが、葛藤にだんだん強くなり耐性もついてきた。
しかし対人恐怖や人間不信の問題はいまだ残っているし、なによりカウンセラーと私にようやく少し信頼関係が築かれてきたところだ。カウンセラーと私の関係性のなかで進んでいくのがセラピーだと思っているから、そういう意味ではカウンセリングはまだ続けたほうがいいと感じる。

そういうようなことを言っていてひとまず私は安心したのだが。以前も「カウンセリングが終わるのが寂しい」といって同様の話をカウンセラーから聞いているから、一定の周期で不安になり確認したくなってしまうのかもしれない。


それで、「患者とカウンセラーとの関係性の中で心理療法は進む」。
これまでも話してくれていたのかもしれないが、すごく重要なことだと感じた。

これまで私は、カウンセラーに対して、単に他者として私を映す鏡になって認知を修正してくれている、まとまらない物語もどきの聞き手になってくれているだけなのかと思っていた。

違うのだ。私がカウンセラーというひとりの人間を真に信頼し、顔色をうかがうことなく恐怖におののくこともない関係性を築くことができたとき、それは他者との関係を築くうえでの雛型になるのだ。

今までそのことがよくわかっていなかった…。カウンセラーとの関係はやはり特殊で、現実の人間関係とは違う、ありえないことだと思っていた。


だから私はずっとカウンセラーと友人になりたかった。
カウンセラーが与えてくれる「受容」がありがたくて心地よくて、カウンセラーとなぜ私は治療関係でしか関われないのだろう、現実に友人になれないのだろうと不満をぶつけたこともあった。

転移がいいのか悪いのかわからなかったが、転移してしまったから仕方がないと、しつこくしつこく疑問をぶつけた。

私がカウンセリングを離れているとき先生が転院しても教えてもらえない、もし亡くなっても知ることすらできない、そんなのは寂しすぎる、と。

カウンセラーはそれは私にとっても大切な問題だと言い、こう話した。

『心の深い部分を話すということはそう簡単なことではないし、カウンセラーが友人ではないから遠いとも限らないと考えている』

カウンセラーが言っていたことが私はわかったようなわからなかったような、そのときはともかく「友人になれないのか」という疑問と不満で頭がいっぱいだったからその答えの意味がよくわかっていなかった。

だけどやっとそれが腑に落ちた気がする。
カウンセラーは患者にとって、たんなる鏡でもビジネスライクな存在でもない。特殊といえど、ひとりの他者なのだ。

カウンセラーと患者という枠内のルールに縛られていても、そこには他の人間関係となんら変わりない人間どうしの心の交流がある。
私がカウンセラーとの関係を大切だと思っているように、カウンセラーも私のことを「所詮患者」だなんて軽んじていることはない。

そしてその関係こそがカウンセリングを進めるのなら…。
カウンセラーと友人になれないことに諦めもつくような気がしてきた。やはり少し寂しいが。

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2008/09/20 (Sat) 今度こそ、今度こそ…。

カウンセリングで食べすぎ・暴飲暴食の症状について話していたら、だんだん感情的になってきて涙してしまった。
この記事でも少し書いたが、私は今の家庭では「子ども」の立場であるが、母親は家族のことよりも仕事を優先し、その結果私は「犠牲にされてきた」という思いがとても強いのだ。

夕食がないのが珍しくない、そんな生活を十数年続けてきた自分は「まともな食事」では満足できないのではないかという恐れもある。他人が食べている量が気になるし、他人はこのくらいでお腹がいっぱいになって満足するのにどうして私は、と落ち込むこともしばしば。だから、なんとか自分に「まともな食事」を覚えさせたいと…習慣づけたいと、精神が安定しているときは食事に気をつけてきたつもりだった。

気をつけるといっても昔のような強迫的なカロリーコントロールや食事制限はしていないし、できない。しかし私は普段「食べること」が意識から離れていることがあまりない。ムチャ食いせず比較的バランスよく食事がとれているときでも、三食いつも食べることを気にしている。「朝はこれだけ食べたから、昼はこれくらい、夜はこれくらい食べてOKだ、といつもその食事が”成功”したか”失敗”したか考えている。三食うまく食べられた日には、良かったとほっとする。綱渡りのような安心感だ。つねに自分を抑制しコントロールしないと、私はどこまでも食べてしまうのではないかという恐怖があるのだ。

「まともな食事」を身につけられなければ、将来(あったとしたらだが)自分の家族に対しても歪みをもたらしてしまうだろう。ましては私は女である、かなりの確率で食事を作る立場になる。その私が摂食障害スレスレ(もうなっているのか?)では、家族に迷惑がかかるし、子どもがいたら子どもにその問題をまた継承させてしまうだろう。それがとても恐ろしい。だから、私は私の代で自分の問題は解決しておきたいと思って、あがいているのだが…。

『なぜ私ばかりが搾取され、犠牲になり、歪みを一手に引き受けなければならないのだ?
なぜ私がいまの家庭で役割外のことを要求され犠牲になってきたのに、次の家庭でも犠牲になるために自己修正しなければならないのだ?
「まともな食事」なんて、クソクラエだ!』

…ストレスが降り積もるとしわ寄せは容赦なく「食事」に出る。ささいなきっかけで、コントロールされ抑圧されてきた自分がここぞとばかりに反乱を起こし、今までの私の努力もささやかな理性の勝利の積み重ねもすべて台無しにさらっていってしまうのだ。そのたび私の理性は自信を喪失し、本能と欲に勝てない弱い人間なのだと自尊心は傷つけられる。幾度繰り返しただろう、そんなことを。終わりのない戦いと敗北、再構築の繰り返しに私はすっかりくたびれ果ててしまったよ。

そもそも家族にとっての食事作りや家事を「犠牲」という言葉でくくってはいけないのだ。それは一面的な見方だ。カウンセラーは「食事を与えることは相手に愛情を与えること」と言っていた。
私は与えることのできる人間になれるのだろうか。なれる自信がない。私にとって「食事を与えること」は「わが身を削り相手に食べさせること」だ。搾取されたくない犠牲になりたくない!そんな私の内面の怒りのエネルギーは凄まじく、自分でも恐れをなしてしまうほどだ。ひとりで暮らしているときは食事が比較的安定するのもそのせいだ。誰の犠牲にもなっていないと安心していられるからである。

そもそも戦うべき相手を間違えている気も薄々している。自分を許せれば良いのだ。太った自分だろうが「まともに食事」ができない自分だろうが…。だけど、それがなかなかできない。何度打ちのめされようとも向かっていってしまう、今度こそ、「ちゃんと出来るのではないか」と…。

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