親を殺した子供の気持ちわかるよ。私は親を愛しているけれど、同じくらい憎んでいるからね。
家族、私が一番苦しかったとき、誰も私の助けにならず、腫れ物のように存在を無視しただけ。
「どうして普通にできないのか」「だらしないから仕事が決まらない」そんな言葉で侮辱しただけ。
私は一度親を捨てた。
三年前、捨てたのだ。心通わせることへの未練も、愛情も無理矢理断ち切って、彼らへの渾身の復讐としようと決めた。故郷にも二度と帰らず、親戚付き合いもしないつもりだった。
彼らに関してもう嫌だと思うことは一切しないことに決めた。
ざまあみろ、と思った。娘に捨てられ惨めだろうと。愛情とお金を注いだ子供から嫌われ捨てられるんだ。それも因果応報だと。
都会のアパートは居心地が良かった。家族づれはほぼ見かけず、地元の老人たちのほかは独身者が多くを占めていた。同じように孤独な人間がたくさんおり、私もそのなかにすぐに紛れられた。
都会は心地よい。寂しさも望んでいたものだ。
そこで私は本当の孤独というのを知ったと思う。
私が今日会社でなにをしたのか
休みの日にどんなふうに過ごしたか
なにを思って生きているのか
誰も知らないのだ、と思った。
誰も興味ないのだ、と思った。
かつて一緒にいた両親以外は…。
その両親を捨てた今、私は他人と交わり生きていく方法も知らず、誰も私に興味を持たないのだった。真っ暗な海で、だれからも切り離されひとり漂っているようだった。
天涯孤独の人の身とはこうなのか。
なんと寂しいものだろう。なんと悲しいものだろう。
心に大きな穴が開いて、寒さを塞ごうとうずくまったまま動けない。
「誰にも顧みられない人間は生きていられるのか?」
そういう人間はいったい、何をよすがにこの世に執着していればいいのだろう。愛憎という重い碇でもなければとても留まっていられそうもないこの世に。底の見えない穴を覗き込むような問いだ。
やっぱりもう自殺するしかないのかなと思った。しかしそれでも生きている人はいるのだろうか。だとしたらどんな生か。それが知りたかった。知りたかった…。
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アルバイト、私の配達担当している地区は、郵便局からは自転車で20分ほどとけっこうはなれており、まったく縁のない地区かと思いきや、これが数年前まで住んでいた地区であり、抜け道なんかもしっかりわかる馴染み深いところなのであった。
当然、昔通った小学校・中学校はそこにあるし、同級生なんかも多く住んでいる。
しかし馴染み深いのがいいことかといえばそうでもなくて、私は小学校・中学校では友達に苦労したし、今でも残っている友達といえば、あんなにたくさん人がいたのに皆無ときたもんだから、むしろいやな思い出を想起させることのほうが多い。
そんな同級生の家に配達。同級生にもばったり会ってしまうかもしれない。現に今までそういう機会が2度ほどあった。2回とも不在で、気の抜けたような安心したような。
私のことを憶えていない人もいれば、憶えている人もいるかもしれない。
やましいことはなにもしていないものの、「今なにやってるんだ」とか「himaさんがアルバイトで郵便配達してた」なんてうわさになったら、と思うと、(自意識過剰だが)、ツライ気持ちになる。
だからか、アルバイトを始めた当時は夢によく見た。何年も思い出しもしなかった同級生達がたくさんたくさん夢に出てきた。ああ、会ってしまった・・・と起きたら、夢でほっとしたり。
私の通っていた中学校は、区内でも悪名高い荒れた学校で、授業は授業として成立せず無法地帯、いじめは日常的、マジメにやっているほうがバカを見るような劣悪な環境だった。
なにもしてないのにいきなり男子に机をなぎたおされ、突き飛ばされ、涙と顔を腫らしているのに教師は見てみぬふり。雨の日傘をさしてれば、窓から唾をはきかけられ。そのときも教師は曖昧に答えるだけ。
心ある教師も少なく、「不良」と呼ばれているような生徒には、厳しく指導するよりはナメられても迎合するほうが楽なもんだから、マジメな生徒・おとなしい生徒は犠牲にされているようなところがあった。
マジメにやっても報われないとか、バカをみるとか‥・
周囲のクラスメートはもちろん、大人でさえも、それを肯定するような環境に、子供時代の私は激しい人間不信・男性不信・教師不信に陥ったものだったな。その頃は家庭もうまくいってなくて、学校でも家でも口をきく相手がおらず、死んだような暗い毎日で、思い出すだけでつらいし。教師不信のほうはいまだに拭い去れていないしね。
そんな複雑な思いを抱えながらアルバイトを続けているとき、例によってまた昔の夢を見た。
授業中うるさくしているクラスメートに、私が立ち上がって、「静かにして!勉強しないなら出て行って!」・・・と叫んでいる夢だった。周囲ののクラスメートははしーんとしてこちらを見て、私はどうしてこんなこと言ってしまったんだろうと真っ青になったが、そのとき、
「大人になった強い自分が、昔の自分に味方して、昔いえなかったことを言ってあげてるんだよ」
と、いう自分の声がはっきり聞こえて。
ああ私はもう、子供じゃないのだな、と思った。
周囲と合わせられない自分が悪いのだ、とか。友達が作れない自分が悪いのだ、とか。
そんなふうに考える必要はないと、もうわかっているのだな、と。
あのときのことはつらい記憶だが、それはそれで、かまわない。
狭い教室で、40人しかいないクラスメートのなかで、気の合う人間がいないことなんてままあることだった。
あれから時間がたって、大人になって強くなり、今なら私はあのときの彼らに毅然とした対応をすることもできるだろう。昔の自分を力づけることもできるだろう。
それでいいのだ。
たとえ今、同級生と会ったって、堂々と強い心を保っていられる。
そう思った。
バイト中、中学校を通り過ぎるとき、あの中にいる子たちで、昔の私とおなじようにつらい思いをしているような子がいないだろうかと、教室のなかの中学生たちを窓の外からつい、見つめてしまう。
おなじバイトのIさんは、76歳の方なのだが、「私もあの頃に戻って、淡い恋などしてみたいものです」と呟く。
私はもう戻りたくはないけれど、あの頃に戻れるとしたら、「この狭い世界で苦しいことがあったとしても、それが一生続くわけではない」ということを教えてあげたい。時間がたてば、大人になれば、自由になれる。そのときを待って、傷つきすぎることなく生き抜いてほしいと心から願っている。
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ものすごく久しぶりに、前の会社の同僚、NAからメールがきた。 もう縁は切れたかと思ってた。
というか、もう縁を切ったと思ってた。
NAは私の後任で入ってきた人、 年齢が近いこともあって、 引継ぎ中に自然に仲良くなった。 そのNAももう会社を辞めてしまいはしたのだが‥・、
NAの エネルギーは人並みはずれてて、人を巻き込む力や魅力があった。 私も彼女にひきつけられ、彼女と一緒にいると楽しかった。
だけど、言いっぱなしで気まぐれなところとか、 妙に破滅的な遊び方なんか、なんとなく不安定なところがあるというか、私とは違うベクトルで少し病んでたと思う。本人は否定するだろうけど。
私が会社をやめる直前は、女性上司(?)のKさんと頻繁にごっつんこするし、 NAはKさんに私とそっくり同じような苦しみ方してるし、 もう社内は波風立ちまくりで大変だった。
仕事できるしコミュニケーション能力もあるんだから、正社員の仕事探せばいいのにとなんども言ったが、私はあんまり仕事に情熱ないから、と言ってNAは派遣のスタイルを続けていた。
10年先のことなんてあんまり考えてない、かといって結婚願望が強いタイプでもない。なんとなく刹那的に毎日を送ってるようなところが彼女にはあった。
彼女の夜の副業もあんまり理解できなかったしな。 遊ぶお金が欲しいというけれど、 遊んでてもあんまり楽しそうじゃなかったし。 無理してるような感じがした。なんて、言ったことなかったけど。そもそもほんとは無理してないのかもしれなかったし。私とはタイプが違いすぎて、本心はどこにあるのかあんまりつかめなかった。
だけどやっぱりはたから見てると「刹那的」で、そういうところを どうにかしようとするどころか、そもそもどうにかしようともあんまり思わないみたいだった。 まあ、本人はけろっと明るいのだが、 妙に疲れた顔してるときなんかには、あの子はもーちょっと悩んだほうがいいと いいんじゃないかと余計なお世話ながらに思ったりした。
が、そういうことを指摘もできなくて、彼女の派手な遊び方についてもいけず、付き合うのが苦痛になってきて。本音の言えない関係に、NAが会社内で次々と巻き起こす嵐にも、だんだん私は疲れてきて、会社を辞めると同時に 私は彼女とぱったり会わなくなった。
彼女の持つ外向きのエネルギーにいつ傷つけられることになるかと怖い気持ちがあったのかもしれない。会社を辞めた頃私も疲れていたし、「怖い」という気持ちを抱きつつ、関係を育てていく気力がもうなかった。
だから、風のうわさでNAが会社をやめたと聞いたときは、 Kさんの厳しい視線にも耐え、 期間満了までやったんだな、えらかったな、と 思いつつも、連絡しなかった。
NAも私のそんな気持ちを感じ取ったのだろう、 むしろつらい状況にあったNAを知りつつなにも言わない冷たい私を恨んでたのかも、 ここ半年余り連絡をとってくることはなかった。
だから、今回のメールは、意外だった。
また例の気まぐれかもしれないし、 私も一度縁を切ったつもりでいたのだから 返信はするまいと思ったが、
なんとなく気が向いて返信してしまった。
NAはあまり変わっていなかった。 これから先、また会うかもしれないし、 もう会わないかもしれない。 安定もしてないし、安心感もない、どう分類していいかわからないような友情。
でも、私はやっぱり、 NAのことがけっこう好きなんだな。 付き合いきれないと思うところはあれど。
だってこうしてみると、彼女のことよく思い出してるもの。
「もっとしたたかになれ。」って言われたことを思い出して、要領のいい彼女だったらこうするだろうか、と考えたりするものね。
人の縁って、切れるようで、なかなか切れないのかな、ふしぎだ。
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思春期に入って、私は前にもまして扱いづらい子供になっていたと思う。黙って家を出て行き、黙って食卓につき黙々と食べ、ひとりで部屋にひきこもる。学習塾に通うようになってからは、家族の食卓すらもなくなった。父のこと、家計のこと、病気の祖父のこと−いろいろなことで、両親は私たち子供のことを色々な面で構う余裕がなくなってきていた。特に私と母との折り合いは悪く、話をすると必ず怒鳴りあいになっていた。直接的なきっかけが特にあったわけではなく、母の疲れから来る怒りやイライラが、私のそれと化学反応を起こし、バチバチ火花が散っていたような感じだろうか。話しかけたらいきなり怒られるなんてこともあって、子供心に理不尽きわまりないと思っていた。
「お前はやり方が下手なんだよ。とりあえず聞き流して、適当に返事しておけばいい」
あまりに両親とぶつかってばかりの私に、兄が忠告してきたことがある。兄の処世術はわかる。いかにも反抗期の私のやりようが両親には憎たらしいのもわかる。だけどそうすればいいとは思えなかった。「それは、子供に大人になれと求めていることではないか?」結局私は歩み寄れなかった。だけど今でも、自分にもし子供ができたら、育てられたように、育てようとは思わない。
対人関係の基本となる家庭において、誰にも話しかけず、誰からも話しかけられない子供は、たいてい、コミュニケーションを拒否するようになっていくんじゃないだろうか。そういう人間はまず、コミュニケーションをどうとっていいかさっぱりわからないものだからだ。
「わからない」というのがあまりピンとこないかもしれないけれど、本当にわからない人間っていうのは、とりあえず話しかければいいだとか、大きな声で挨拶してみるだとかの各種の基本からまったく先に進まないのであった。始めの一声が出ても、次が続かない、天気の話をすればいいんだろうか?と本気で悩み、困るのだ。幼稚園の頃のように、「遊ぼう」と言ったらそれですべてが済んでいた頃とはちがう…。そうしてコミュニケーションは、常に緊張を強いられる、苦痛なものでしかなくなっていく。周囲も少し会話を交わすだけで、敏感になにかしらの違和感を察する。要するに浮いてくる。
家庭にいても学校にいても、同じだ。わたしはひとり自分の世界に閉じこもり、いつもずっと頭に浮かぶひとり言を呟いているような子供で、同級生は遠い世界の存在のようだった。話していることにさっぱり興味が持てなかったのも、会話の方法を学ぶにはマイナス要因。まして、中学生の女子同士にありがちなグループの形成や、その対立などにも、そもそも仲が良い仲が悪い以前の段階だったのだから、関わりようもない。
乙一の小説に、「Calling You」という短編がある。白馬の王子様じゃないけれど、孤独な少女のところに、ある日同じように寂しさを抱えるだれかからのメッセージが届くというファンタジー。まさにこんなことが現実に起こらないだろうか、と日々空想していた。(なんて夢見がちなんだろうと思われるかもしれないけれど、中学生の女子の頭の中って、だいたいこんなもんだと思う。)
乙一の小説は、寂しい人間の心にそっと寄り添うようなやさしさがある。多くの若い人たちに、特に教室という閉ざされた世界にいる人たちに、支持されているのも頷ける。私も、当時ずっとこのたとえようもないさびしさから、閉塞感から自分を救ってくれる”なにか(だれか)”を求めていた。結局、多くの人がそうであるように、最終的には自分で自分を助けなければやはりどうにもならない、と見切りをつけていくしかないのだが。
『コミュニケーション』。ほとんど人と話すことができなかった思春期の数年間と比べれば、この項目に関して、十代のあるときから、私は心から努力し、不完全ながらも膨大な自分なりのマニュアルを作り上げたと、自分では思っている。
バス停で後ろに同年代の子供同士が並んだとき。塾で教室で、後ろの席で隣り合った友達同士がおしゃべりしているとき。あらゆる場面で耳を傾け、しぐさやリアクションを必死で学ぼうとした。
「みんなはいったい、何をあんなに楽しそうに話しているのだろう?」
「どうやったら、あんな風に”他愛のない会話”ができるのか?」
「こういうときはこういう風に返せばスマートなんだな」…etc.
おかげで、大概の切返しには迷わず、浅い空気の場所であれば、やり過すことができるようになった。だけど所詮、マニュアルはマニュアルだから、それに頼ってばかりだと、いろいろと弊害はある。
まず、予想外の出来事やアドリブには弱い。そのうち、形だは整ったお座なりな建前として、自動的に私の口をついて出る、ときに”心のこもらない””冷たい”言葉となって出てくるようになってくる。全体的に耳障りは良いけれど、自分の意見としての芯がどうも一貫せず、八方美人的な対応になってしまう。ある場面で人を怒らせたりするとびっくりして、あわててマニュアルを書き換えるが、それがまた別の人を怒らせたりして。誰をも満足させるのは不可能、かといっていざ、本心を言葉にしようと思うとなにも出てこない。急ごしらえの対処方法だから、色々と無理も生じていたし、現在も生じているのだけれど、このマニュアルを日々更新しつつやってきている。
ただ、いまだに私は「友達」と会話するのにも緊張する。自然な形でコミュニケーションを身につけたわけではないツケは残っている感じだ。対人緊張、対人恐怖の症状は消えていない。これは、カウンセリングに向かう姿勢でも同じことを指摘されるが、なにか話題を用意していって、退屈させないように…と考えてしまうのだ。手ぶらで行っちゃいけない、と。最近は、意識して、あえて何も考えないようにして人と向き合うようにしている。あえて意識しないように”意識する”のだ。
ただし、力むなと言われるほどに力が入ってしまうタイプの人間は、こうなってくるともう、なにがなにやらわからない。力を入れなくていいところで無駄に肩の力が入り、抜いてはいけないところでタガが外れすぎる。そのラインがまったく見極められない。自分のキャラクターがまるでわからなかった。なにを言ったらうまくいくのかわからないという他人への恐怖感と、自分の感情を優先することができない、自己肯定感のなさが邪魔していた。周囲にはきっと、わたしはものすごく精神不安定な人間のように見えていたに違いない。
特に大学に行っていた頃は、家に帰るごろになるといつもガンガンに頭痛がしていた。迫ってくるプレッシャーは、直接相対する他人だけではない。周囲にいる人すべてに、それこそ道端ですれちがう人にまでも私の人センサーは反応し、体に緊張が走った。脳のどこかがいつもガチガチに緊張し、ひとときもリラックスできず、帰ってくるとどっと疲れが出て倒れこむように眠るばかり。そんな生活は、長くは続かなかったのは当然だったかもしれない。とにもかくにも人のなかに泳ぎ、混じって生きていくこと。とにかくそのことに必死になっていた。
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